【ふなじぞう】
大庭城址公園の南端、舟地蔵交差点の北西角にある。現在でも花や菓子などが供えてあり、土地の人達によって手厚く守られているのがわかる。
この地蔵の一番の特徴は、その台座が舟の形になっているところである。珍しい形ではあるが、稀なものではなく、おそらく“無事に三途の川を渡れるように”という意味合いで作成されたものではないかと考えられている。ただここにある舟地蔵については、悲しい伝説が残されている。
扇谷上杉家の支配する大庭城を、北条早雲が攻めた時のこと。
大庭城は、太田道灌が全面的に改修し、かなりの規模の平城であった。そしてさらに厄介なのは、平地から攻めようとすると城の前面に沼地があって、思うように兵を進めることが出来ないことであった。さすがの北条軍も攻めあぐねるばかりであった。
ある時、北条方の武将が、城のそばでぼた餅を売っていた老婆に何か良い知恵がないかと相談してみた。すると老婆はあっさりと「引地川の堤を切れば、簡単に水が抜けて沼地ではなくなる」と答え、さらには最も決壊させやすい堤の場所まで教えたのである。
喜んだ武将であったが、それと同時に秘密が漏れたことを敵に知られてはなるまいと思い、その老婆を斬り殺してしまったのである。そして北条軍は堤を切って水を抜き、遂には大庭城を攻略してしまったのである。
大庭城はその後は北条氏のものとなり、そして北条氏の滅亡と共に廃城となった。近隣の者は、秘密を教えてしまったために殺された老婆を哀れみ、城跡近くに一体の地蔵を置いて、その霊を慰めた。それが今ある舟地蔵であるとされ、土地の人々はその左手に乗せられている宝珠は、実は老婆が売っていたぼた餅であると言い伝えている。
<用語解説>
◆大庭城
鎌倉権五郎が築城したとされ、居城とした権五郎の子より大庭氏を名乗る(源頼朝を石橋山で破った大庭景親は子孫)。室町時代には扇谷上杉氏の支城となり、太田道灌が大改修をして東相模の要衝とした。永承9年(1512年)、北条早雲によって攻略された後にも改修された。北条氏の滅亡時に廃城となる。
◆北条早雲
1432(1456)-1519。備中国の生まれ、幕府政所執事を務める伊勢氏の支流の出とする。駿河の今川氏の家臣(本人が今川氏親の生母の兄弟であったため)となり、後に独立。伊豆から相模一国を実力で領有した史実は、下剋上の実例(戦国時代の幕開け)とされる。
アクセス:神奈川県藤沢市大庭