【うんかいじ たなかかわちのすけのはか】
田中河内介は幕末の攘夷派の志士である。但馬の出石の出であったが、公卿の中山忠能の家臣となり、同じ家臣の田中家に養子に迎えられて、河内介を任ぜられる。西国の攘夷派の志士と交流が深く、その邸宅には常に攘夷派の志士が集まっていたとも言われている。そのような中で、寺田屋騒動が起こる。
文久2年(1862年)、薩摩藩は、島津久光上洛を機に京都で挙兵を企てようとする、藩内の過激な攘夷派を寺田屋で粛正した。6名の攘夷派がその場の決闘で斬り死に、他の藩士らも捕縛されたが、その中に田中河内介も含まれていた。最終的な藩士の処分は、薩摩藩士は本国へ移送、他国の藩士はそれぞれの国元に引き渡すこととなったが、既に中山家を辞していた河内介らは薩摩へ移送との決定が下った。
しかし、田中河内介とその息子の瑳磨介は、薩摩へ護送されることなく、播磨の垂水沖で斬殺され、その遺骸は海中に投げ捨てられたのである。そして潮流に乗って小豆島の福田の海岸に打ち上げられた二人の遺骸は、後ろ手に縛り上げられ、頑丈な足枷が付けられたままであったという。哀れに思った村人によって埋葬された遺骸であったが、明治25年(1892年)になってようやく墓標が建てられ、3年後には哀悼の碑が建てられたのである。河内介父子の墓と碑は現在、雲海寺境内にあり、海を見下ろす高台に丁重に祀られている。
この田中河内介父子斬殺については、薩摩側のはっきりとした記録は残されていない。殺害の理由は、過激な攘夷論者であった河内介を薩摩領内に入れることを危険とみなしたためと目されているが、誰がそれを命じたのは全く不明である。薩摩藩としてはこの事件を非常に不名誉なことと認識している節があり、長らく隠し続けてきた経緯がある。ただ田中河内介の祟りという噂は、その死の直後からまことしやかに噂されていたのである。
<用語解説>
◆中山忠能
1809-1888。開国時にあたって権大納言の位にあり、朝廷内の強硬な攘夷論者であった。娘の慶子が孝明天皇の男児(後の明治天皇)を産んだことから、天皇の外祖父となる。明治天皇は幼少の頃に中山家で養育され、その際に田中河内介が勉学を教えている。
◆田中河内介斬殺のその後
事件から8ヶ月後、斬殺がおこなわれただろう垂水沖で、薩摩藩の最新式の御用船・永平丸が暗礁に乗り上げて沈没。これが河内介の祟りと藩内で噂された。この一帯はその後も事故が多発し、明治になって灯台を建てるも数年で倒壊、地元の者も怖がって近寄らなくなったという。
河内介斬殺に加わった柴山兄弟のうち、実際に手を掛けた弟はその後発狂して刀を振り回すことがあったと伝わる。その他にも斬殺に直接関係した者の発狂の噂や、呵責のために自害した者の噂が薩摩藩内にはあったという。
明治2年頃、天皇が功臣を集めて宴を催した時、ふと田中河内介の消息を尋ねたという。その時、誰もその最期を告げる者がおらず、重ねて天皇が尋ねて、初めて黒田清隆が「おまえなら知っているだろう」と大久保利通を指名したとの話が残っている(大久保暗殺の際にも、河内介の祟りとの噂があったようである)。また別説では、返答したのは小河一敏(岡藩主出身、寺田屋事件の攘夷派の一人)であったとも伝わる。
大正の初め頃に東京の「画博堂」(あるいは「向島百花園」とも)でおこなわれた怪談会で、田中河内介の最期を語ろうとして頓死した者が現れたという怪談話があるが、おそらく上に挙げた数々の噂話が昇華された末に生まれてきた究極的「禁忌話」であると推察する。殺害する確たる理由もなく、同志だった者を嬲り殺しにした負い目の産物であったのだろう。
アクセス:香川県小豆郡小豆島町福田