【ふかいじぞう】
ちょっとした集落でなら特に珍しくもないような地蔵堂であるが、その由緒を紐解くと、平将門の伝承にまつわるものであることが分かる。
平将門が関東で乱を起こす遠因となったのは叔父の平良兼との「女論」であったとされる。つまり女性を巡る争いである。一説では、源護の娘を将門が妻に所望したが良兼に奪われてしまったとも、あるいは良兼の娘を将門が妻にしたところ源護の3人の息子が横恋慕して襲ったのだとも言われる。いずれにせよ、将門と良兼はお互いに敵とみなして干戈を交えたのである。
承平7年(937年)8月、平良兼は子飼(小貝)の渡しに進駐した。一方の将門は脚気で戦意もなく、連れていた妻子は万一に備えて船に乗せて隠れさせた。ほどなく良兼の軍は引き揚げたので、妻子は岸に戻ろうとした。しかしまだあたりに残っていた良兼軍の一部がそれを発見、妻子は“討ち取られ”たのである。
この将門妻子受難の地に建てられたのが深井地蔵である。つまり殺された将門妻子の冥福を祈って造られたのが、この地蔵であるとされる。今では安産子育てにご利益があるとされ、月ごとの縁日には多くの参詣があるという。
<用語解説>
◆平良兼
?-939。父に継いで上総介となる。平将門とは叔父・甥の間柄であると同時に、舅・婿の関係でもある。しかしお互い不和であり、将門の勢力拡大に対して敵対するようになる。度々戦火を交えるが、最後は病没。
◆妻子受難の記述
将門の妻子が“討ち取られ”たとの記述は『将門記』にある。しかしその後の展開として「翌月に兄弟によって良兼の元から脱出して将門の陣に戻った」という記述がある。
将門には少なくとも2人の妻があり、一人は平良兼の娘、もう一人は平真樹の娘とされる。深井地蔵の存在と『将門記』の記述から、おそらく2人の妻は同時に捕らわれ、平真樹の娘だけが殺され(平真樹と平良兼は縁者ではなく、敵対関係にあった)、自分の娘は自陣に連れ帰ったと推測して良いかもしれない。
アクセス:茨城県坂東市沓掛