【ゆきみのごしょあと】
“目競(めくらべ)”という妖怪がある。
この名は、鳥山石燕の『今昔百鬼拾遺』に初めて現れるものであるが、書かれてある内容は『平家物語』の巻第五にある“物怪之沙汰”の一部である。
平清盛入道が福原の邸宅にあった時。朝、寝所から妻戸を開いて中庭を見ると、しゃれこうべが無数にあり、それがあちらこちらを転げ回っていた。清盛は人を呼ぶが、誰もやってこない。そのうちしゃれこうべは一つにまとまりだし、やがて十五丈ほどの大きな山のようになった。さらにはそこから大きな目玉が無数に現れ、清盛を睨みつけた。それに対して、清盛も慌て騒がず、仁王立ちで睨み返したのである。そうしているうちに、しゃれこうべは溶けてなくなるように跡形もなく消えてしまったという。
平清盛が福原に滞在中に住んでいた屋敷は、雪見御所と呼ばれていた。おそらくその邸宅が舞台と設定されたであろうことは想像に難くない。現在、雪見御所跡の碑が神戸市立湊山小学校の北西角に建てられているが、遺跡調査によると、この小学校の建っている所が雪見御所の庭園であったとされている。
この妖怪・目競の絵で有名なものに、月岡芳年の『新容六怪撰 平相国清盛入道浄海』があるが、これは庭に降り積もる雪を髑髏と見立ててその怪異を表現しているが、これは“雪見御所”の名を念頭に置いてイメージされたものであると考えてもよいのではないかと思う。
<用語解説>
◆福原
平清盛が福原を拠点にして住むようになったのは、仁安3年(1168年)。太政大臣を辞して出家した直後からであり、その時に雪見御所は建てられている。福原は清盛が建設した大輪田泊を見下ろす高台に造営されている。そして治承4年(1180年)に周囲の反対を押し切って福原へ遷都するが、半年ほどで京都に還幸となった。その後福原は木曽義仲によって全て焼き払われている。
◆月岡芳年
1839-1892。幕末から明治にかけての浮世絵師。歴史・武者・妖怪・美人画などの画題を得意とした。特に無惨絵では『英名二十八衆句』の傑作がある。
アクセス:兵庫県神戸市兵庫区雪御所町