【じぞうはな】
因島の南東部に大きく突き出た半島がある。その先端部には、室町時代中期以降から城があった。美可崎城という。この地はちょうど瀬戸内海の中央部に当たる備後灘を通航する船を一望することができる場所にあり、城が出来るより遙か前、奈良時代後期(宝亀2年:771年)には“海の関所”が設けられている。美可崎城もこの“関所”としての役割を担っており、因島村上氏の武将であった南氏が治め、城代として金山亦兵衛康時が置かれたのであった。その具体的な役割は、この海域を通る船から津料を徴収すること。これは村上氏にとっては重要な収入源であった。そしてこの津料を拒否する船に対しては襲撃と略奪という、いわゆる海賊行為をおこなって金品を回収していたのである。
ある時、一艘の船を襲撃し、金品ばかりでなく乗っていた人間も捕まえて城へ連れ帰った。その中に一際美しい女性が混じっていた。素姓を尋ねると、周防国の高橋蔵人の娘で、琴の修行のために京都へ上る途中であると答えた。ならばと琴を弾かせると、夢心地のような気分になる。城代の金山はいたく気に入り、ここで仕えるよう命じた。しかし娘には、京都での修行の後、結婚する約束をした男が故郷にあった。それ故に金山の命を拒否した。断固として拒否する娘に対して、とうとう金山は怒りを爆発させ、娘を浜に引きずり出すと斬り捨ててしまったのである。
それから間もなく、夜になると浜の方から女のすすり泣く声と琴の音が聞こえてくるようになった。金山が娘を殺した場所である。この夜な夜な聞こえる悲しげな物音にさすがの金山も参ってしまい、浜にあった大きな丸石に地蔵を彫って娘の供養をした。するとようやく物音はしなくなったのである。
それからさらに時が経ち、この地蔵の置かれた浜に若い男が訪れた。ここで不幸な最期を遂げた娘の許嫁であった。悲しみにうちひしがれた男は、そのまま海へ身を沈めた。その一部始終を見届けたのは石に彫られた地蔵であったが、その悲しい結末に涙をこぼしたのである。そしてその涙は小さな小石となって付近に数多く散らばったという。
地蔵鼻の先端の浜辺には、今でもその地蔵がある。「鼻の地蔵」とも「美可地蔵」とも呼ばれているが、この地蔵に祈願をして周囲に落ちている石を拾って帰ると恋が成就するとされ、若い女性の参拝者が多いと言われる。また安産や子授けなどの女性の願いを叶える地蔵としても知られている。岬の急斜面を下って浜へ行くが、干潮時にだけ全身を現し、満潮になると身体の半分以上が水没して石にも近づくことが出来ないという。
<用語解説>
◆因島村上氏
瀬戸内海一帯の制海権を握った村上氏の一族。鎌倉時代に能島・因島・来島の3系統に分かれ、南北朝時代には水軍を率いて行動していたとされる。16世紀になると因島村上氏は、毛利氏に服属し、厳島の戦いなどで水軍を率いて毛利元就の躍進を助けた。関ヶ原の戦いで減封された毛利氏と行動を共にし、その後は長州藩の船手組を組織した。
アクセス:広島県尾道市因島三庄町