【こうばいじぞう】
京の公家であった冷泉家の娘の紅梅姫が、花尾城主・麻生上総介重郷の側室として下ったのは、西国の太守・大内義興の養女として山口にあったためである。京都一の美女と謳われた姫と上総介が互いに見初めたためであるとも、義興の何らかの意思が働いたためであるとも言われている。いずれにせよ上総介は姫を迎えてからずっと傍に置くほど可愛がったのである。
この光景に嫉妬したのは、上総介の正室である柏井の方である。柏井の方は何とか姫を遠ざけようと、腹心の飯原金吾に相談した。ならばと飯原は、大内家の右筆で親族の沢原市右衛門と相談して、偽の恋文を作り上げた。姫の字に似せた文を、畏れながらと上総介に見せると、すぐさま真に受けてしまった。裏切られたと思った上総介は、弁明を与える間もなく姫を屋敷から追い出したのである。
紅梅姫の落胆は大きかった。身寄りもいないこの地で頼りとしてきた上総介から無実の罪を着せられ逼塞を余儀なくされたのである。もはやすがるものもなく、昼は侘び住まいの庵に籠もり、月の出る夜にだけ馬を駆って心を慰める日々を続けた。しかしそれも長く続かず、姫はとうとう自害してしまう。明応4年(1495年)8月14日のことであった。
上総介が紅梅姫のために屋敷内に建てた御殿は、姫を追放してから娘の八重姫に与えられていた。しかしそこで寝起きするようになって娘は体調崩して寝込むようになった。ある時、母の柏井の方が見舞いに訪れた。その姿を見るや八重姫の形相は一変し、母親を押し倒して馬乗りになると、懐剣で肩のあたりを何度も斬りつけたのである。「妾は紅梅である。謀られた怨みを思い知れ」と叫び続けながら。
柏井の方が受けた傷は致命傷にはならなかったが、七日七晩苦しみ抜いて、そして死んでいった。また八重姫はその後も何度が狂乱の態を見せたが、決まってその背後に若い女の姿がぼんやりと見えたという。
紅梅姫を陥れた飯原金吾も、柏井の方の死と前後して無残な死を遂げた。一説によると、紅梅姫の一回忌法要で酒をしこたま飲み続け、その帰り道に自ら池に飛び込んで溺死したという。ただその直前に紅梅姫の名を叫び、己の両の指で顔を抉るように掻き毟って飛び込んだとされる。
その頃になると、花尾城下の人々は奇怪なものを目撃するようになった。美しい月夜になると、馬の蹄の音がどこからともなく聞こえてくる。そして中空を月毛の馬が一頭、白い衣を身にまとった女人を乗せて、月に向かって駆けていくのである。その姿はまさしく城を追われ寄る辺のなくなった紅梅姫の生前の姿そのものであった。こうして城下の者で紅梅姫の無念の死とその祟りを知らぬ者はなくなったのである。
最後に残った首謀者の一人、沢原市右衛門にも報いが訪れる。不意の用件で花尾城にやって来た市右衛門は、この日が紅梅姫の三回忌の法要であることを知らなかった。城を挙げての法要のため退散するわけにもいかず、半ば強制的に法要の席に臨んだ市右衛門は、終始畏れの色を隠せなかった。そしてそれが終わると這々の体で城を後にしたが、城門を出たあたりで事切れていた。額に馬に踏み割られたような跡が残っていたという。また一緒にいた侍の中に、道を疾走する月毛の馬を見たと証言した者があったが、確証はなかった。
上総介は己の短慮を後悔し、何とか紅梅姫の怒りを抑えようと一体の地蔵を造った。それが“紅梅地蔵”である。戦前までは紅梅町に堂宇があったが、空襲のために焼失。戦後になって隣町にある浄蓮寺境内に移され、現在に至っている。婦人病などの女性の悩みに霊験があるとされ、紅や白粉を奉納して願を掛けると良いとされている。
<用語解説>
◆麻生上総介重郷
生没年不明。花尾城主・麻生氏14代とされる人物。麻生氏は元は豊前国の宇都宮氏の傍系とされるが、大内氏の九州侵攻の中で服属するようになったとされる。重郷が城主となったのも、麻生氏内での家督争いの末に、大内氏の意向があったためである。
◆大内義興
1477-1529。周防の守護・大内家15代当主。明応3年(1494年)に父の政弘の隠居により家督を相続。翌年に父が亡くなり、実質的な当主となる。このため紅梅姫の逸話に関して、義興ではなく先代の政弘によって麻生重郷に与えられた可能性が残る。
◆浄蓮寺
浄土宗の寺院。慶長年間(1596-1615)に当地に創建。古くより「愛宕地蔵」が安置され、山火事から一農民によって持ち帰られ、町が大火の折もその家だけ焼けなかったという逸話を持つ、火除けの霊験あらたかな地蔵がある(一説では寛永年間の出来事とも)。また松尾芭蕉の碑などもある。
◆紅梅地蔵の異説
『日本の伝説33 福岡の伝説』によると、紅梅地蔵には異説があり、紅梅姫は安徳天皇の異母妹(あるいは母〔建礼門院のことか?〕の妹)であり、平家滅亡後に九州に逃れてきた人物とされる。源頼朝から探索の命を受けた麻生家政(麻生氏初代)によって見つけられ、成人した後に家政の子・資時の嫁となり、生を全うした。その姫の墓の上に置かれた石を地蔵としたのが“紅梅地蔵”であるとされる。
アクセス:福岡県北九州市八幡西区藤田