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九十九橋

【つくもばし】

足羽川に架かる九十九橋は、昔より名橋・奇橋として広く知られていた。それは“半木半石”という稀に見る工法で造られた橋である故である。即ち橋の北半分が木で造られており、南半分が石で造られていたのである。この不思議な工法となった理由は諸説あるが、城に近い北側だけいつでも壊しやすい木で造ったとも、川の北側には材木商が多く南側には石工が多かったためとも言われる。

この橋は造りの珍しさもさることながら、地元では恐ろしい怪異の噂でも有名であった。旧暦の4月24日、丑の刻になると、この橋あたりから首なしの武者行列が現れるという。しかもそれを見た者は必ず死ぬと言われるため、その日の夕刻以降は町中全てが戸締まりをして誰も外に出なかったとされる。

この首なし武者行列の主は、福井の町(当時は「北ノ庄」と呼んだ)の基礎を造った柴田勝家である。4月24日は、天正11年(1583年)羽柴秀吉に敗れた勝家が北ノ庄城で自害して果てた日であり、その恨みから出没するとされるのである。さらに言えば、この九十九橋も勝家が町の造営の中で架けさせたものであり、愛着ある存在であったことは間違いない。

九十九橋にまつわる怪異譚はいくつか残されているが、その最も奇怪なものが、享保年間(1716~1736年)に起こったされる表具屋佐兵衛の話である。

以前より、どうしても首なし武者の行列を見たいと思っていた佐兵衛は、たとえ死んでも構わないからその光景を絵に残したいと、遂に4月24日の夜中に外に出た。すると違わず、首なし馬に跨がった首なし武者の隊列がしずしずと町中を進んでいく。しかもその馬印は柴田家のもの。佐兵衛は夢中になってその様子を紙に描き、修理を頼まれていた桐箱の中にそれを隠したのである。翌日になると佐兵衛は噂通り変死、桐箱は持ち主である武家の許に戻された。その武家は箱に入っていた亡霊の行列が描かれた絵を見つけると、不吉とばかりに庭で焼き捨てることに。ところが火がついた途端にその紙は宙を舞い、あろうことか屋敷に燃え移り、最終的に近隣を焼き尽くす大火事になったという。さらにその時に、宙を舞う首なし武者の姿を目撃した者が何人もいたとも伝わる。

この柴田勝家の亡霊が出現するようになったのは、寛永元年(1624年)に“北ノ庄”の地名を嫌って“福居(福井)”と改めた頃からとしている。また首なし武者行列から命を守る唯一の方法は、行列から誰何された時に「柴田勝家の家臣である」と名乗ることとも伝えられている。おそらくこの町の基礎を築いた人物が柴田勝家であることをゆめゆめ忘れるなという意識がどこかで働いていたのかもしれない。

九十九橋は、何度かの掛け替えがおこなわれた後、明治42年(1909年)に半木半石の造りから木造トラス橋へと工法を変えて造り直される。それ以降、首なし武者の行列を見たという者はいなくなったという。

<用語解説>
◆柴田勝家
1522?-1583。家老職にあって織田信長に仕え、主力軍の猛将として数多くの合戦に参加。信長の越前統一後に北ノ庄を与えられ、北陸方面の経営を任せられる。信長の死後、羽柴秀吉と対立するが、賤ヶ岳の戦いで敗北。最終的に北ノ庄に戻り、後妻となったお市の方(信長の妹)と共に自害する。

◆現在の九十九橋
現在の橋は昭和61年(1986年)に架け替えられた鉄筋コンクリート製のものである。かつての半木半石の橋の姿は、柴田神社境内で復元されている。

アクセス:福井県福井市つくも

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