【やつまたえのきおそでだいみょうじん】
松山市街の中心地、松山城の堀のそばにあり、お袖狸を祀る社である。お袖狸は松山城内の森に住んでいたとされる雌狸で、文政13年(1830年)頃から堀端に植えられた榎の大木に移り住んだとされる。この榎の大木に登って人の往来を見る(美男子を見るためとの説あり)のが好きな狸であったとされ、神通力を持っていたので、道祖神になりすまして徐々に信仰を集めるようになり有名になった(松山出身の正岡子規もこのお袖狸を俳句の題材としている)。
商売繁盛・縁談・病気平癒などあらゆる願掛けにご利益がある。特に有名なのは安産で、大正7年(1918年)に産婦人科を開業していた安井雅一が急の往診を依頼され見覚えのない邸宅で子を取り上げたが、その謝礼金に木の葉が混じっていて、お袖狸の仕業であろうというまことしやかな噂が残されている。
人気のある神様なのだが、何度か消滅の危機があった。明治5年(1872年)には県の命令で榎が伐られ県庁の薪にされ、お袖狸も一時堀端を離れてしまう。さらに明治44年(1911年)松山電気軌道の路面電車開業に伴い、祠のあった榎の大木が伐られてしまう。この時は勝山町にある六角堂に合祀という形で移転したが、結局、また堀端にある別の榎の木の下に祠が建てられた。
そして最大の危機は昭和9年(1934年)。伊予鉄道の複線化でまた榎の木が邪魔となって、伐り倒すことになった。ところが、作業する者が怪我をしたり病気になったりして一向にはかどらない。お袖狸の祟りと言われはじめ、遂には松山歩兵第22連隊の憲兵隊が乗り出すも、結局病人続出で撤退してしまう。そこでお袖狸の信仰者が伐採ではなく、根を伐って掘りあげて移植する案を出して実行。榎の大木は石井村の喜福寺へ移されるが、枝を打ち払われ、根まで傷つけられたせいでしばらくして枯死してしまう。これでまたお袖狸は行き場を失ってしまう。
ところが翌年、不思議な噂話が松山の町を駆け巡る。予讃線の大井駅(現在は大西駅)に一人の女学生が降り立った。それがお袖狸が化けたものであるという話となり、さらに駅近くの小西村(現在の今治市大西町)にある明堂に鎮座したということになった。これが評判となって明堂には連日参詣者が集い、大井駅は松山駅や高松駅並みの乗客が押し寄せたのである。しかしこの大騒ぎもわずか1年ほどで収束し、その後はしばらくあちらこちらに出現したという噂だけが立ったという。
戦後になって、いつの間にか、堀端の榎の下にまたお袖狸の祠が出来ていた。そして昭和31年(1956年)、檜造りの立派な祠が完成。さらに平成26年(2014年)には八股榎お袖大明神奉賛会が発足し、根強く庶民の信仰を集めている。
<用語解説>
◆安井雅一
産婦人科医。戦後初の公選で松山市長となる。
アクセス:愛媛県松山市堀之内