【じょうるりひめくようとう】
『浄瑠璃物語』またの名を『十二段草子』という物語がある。
三河の矢作に居を構える兼高長者の許に、京から平泉へ向かう金売り吉次の一行が宿泊する。その中には、元服したばかりの源氏の御曹司・義経の姿もあった。
宴席で歓待の琴を弾いたのは、長者の娘・浄瑠璃姫である。姫は、年老いた両親が鳳来寺の薬師瑠璃光如来に祈願して授かった一人娘であった。その琴の音に合わせて、義経は親の形見である薄墨の笛の音を奏でた。二人は初対面であるにもかかわらず、その場に互いに引かれあう。そして一夜の契りを結ぶのであった。
しかし義経が金売り吉次の一向に加わっていたのは、源氏再興の大願を果たすために平泉の藤原秀衡にまみえるためであった。先を急ぐ旅の身、義経は薄墨の笛を我が身の代わりにと浄瑠璃姫に渡し、東へと旅だって行った。しかし浄瑠璃姫の思いは断ちがたく、ついには義経の後を追って家を飛び出し、東へ向かって行った。
蒲原の宿まで来た浄瑠璃姫は、正八幡のお告げで義経の消息を知ることができた。しかしそれは義経が病を得て亡くなったというしらせ。駆けつけた浄瑠璃姫は愛しい人のために祈願をし、ついに義経は蘇生するのであった。
この男女の純愛と仏の加護に彩られたストーリーは、やがて独特の節回しをつけて語られるようになる。これが発展して出来たのが、のちの「浄瑠璃」という音曲である。
兼高長者の矢作の宿があった岡崎では、別の浄瑠璃姫の悲恋の物語がある。義経の後を追った浄瑠璃姫であるが、結局会うことは叶わず、矢作に引き返してくる。しかし長者は家に戻ることを許さず、姫は近くに草庵を建てて住まうこととなった(あるいは長者によってなかば幽閉されたとも)。そこでも姫の義経への思いは消えることなく、ついには会えぬ身の辛さ故か、川へ身を投げて亡くなったという。それから間もなく、義経は源氏の大将として京へ上る途上、矢作の地を訪れて姫の最期を知ったのである。(『浄瑠璃姫物語』でも浄瑠璃姫は矢作で亡くなり、死後に義経が訪れる展開となっているが、そこでは病死ということになっている)
浄瑠璃姫の遺跡は岡崎の各所に点在する。姫の草庵の跡は、後に岡崎城の敷地となり、その後公園化された一角に浄瑠璃姫供養塔が置かれている。また、姫が入水した川のそばには成就院という寺が建立され、そこに浄瑠璃姫の墓がある。またその墓地のすぐそばには浄瑠璃が淵という小さな公園が残されている。さらには兼高長者の住まいがあったといわれる場所には、誓願寺が建てられ、そこにも浄瑠璃姫を祀る墓が作られており、また薄墨の笛も寺宝として残されている。
浄瑠璃姫の草庵跡には、かつて浄瑠璃寺と呼ばれる寺院が建てられたが、岡崎城の築城の際に現在の場所に移転している。また義経が浄瑠璃姫から形見にもらった麝香を埋めたとされる麝香塚に用いられたとされる石が、六所神社の大鳥居の脇にある高宮神社石碑の礎石になっているという。そして浄瑠璃姫が観月の宴を開いたとされる観月荘跡の碑が、三河別院にある。
<用語解説>
◆『浄瑠璃姫物語』『十二段草子』
室町時代前期、15世紀頃に成立。それまでの語り物が『平家物語』などの軍記物が中心であったのに対し、男女の恋愛を中心に作られたこの話は画期的であり、その後の新しい音曲へと展開していくことになる。ただ演ずる琵琶法師によって様々な脚色がなされているため、大筋の話は同じであるが、細部にかなり異なった部分がある。
アクセス:愛知県岡崎市康生町(浄瑠璃姫供養塔)
愛知県岡崎市吹矢町(成就院)
愛知県岡崎市矢作町(誓願寺)
愛知県岡崎市康生通西(浄瑠璃寺)
愛知県岡崎市明大寺町(六所神社)
愛知県岡崎市十王町(三河別院)