【かまくらぐう】
祭神は、後醍醐天皇の第三皇子・大塔宮護良親王である。
親王は6歳の頃には僧となる身として門跡に入り、その後、若くして天台座主にまで上り詰める。しかしその気性は激しく、座主となってもなお武芸を好み、日々その技量を磨いていたと言われる。
転機が訪れたのは元弘元年(1331年)。父である後醍醐天皇が幕府打倒を目指して兵を挙げた時である。挙兵に呼応するように、親王は還俗して戦乱の真っ只中に身を投じることになる。特に後醍醐天皇が隠岐に流罪となった後の活躍はめざましいものがあり、楠木正成と時を同じくして再挙兵し、令旨を発して各地の不満分子である武士の倒幕を促したのである。この一連の動きが功を奏し、遂に幕府は滅亡するのである。
後醍醐天皇による親政が始まると、親王は征夷大将軍と兵部卿という、武士の最高権威の地位を得る。しかしそれは、倒幕に功績のあった足利尊氏を刺激し、両者の仲は険悪となる。さらに倒幕の令旨を出したことに絡んで、父の後醍醐天皇とも対立を深めていった。そして建武元年(1334年)に皇位簒奪の疑いを以て親王は捕縛され、足利方に引き渡される形で鎌倉に幽閉されるのである。
土牢に幽閉されること9ヶ月余り。親王に悲劇が訪れる。先年滅ぼされた北条高時の遺児である時行が鎌倉を攻め落とす勢いで進軍してきたのである。守りにあった足利直義は鎌倉を放棄することにしたが、その時、家臣の淵辺義博に後難の憂いを絶つために親王暗殺を命じる。
『太平記』によると、この暗殺は凄惨極まりないものであった。土牢に押し込められて足の萎えていた親王は、易々と淵辺に組み伏せられてしまうが、首を掻こうとする刀を歯で噛み止めて抵抗し、とうとう切っ先の部分が折れてしまう。すると淵辺は脇差しを抜いて、親王の胸を二刺し、そして弱ったところで首を掻き切ったのである。淵辺が首を明るいところへ持っていって確かめると、生きているかのように両目をカッと見開き、口の中はなお折れた刀の切っ先を噛み締めたままという恐ろしい形相であった。これを見て淵辺は「このような首は主君に見せるものではない」として持ち帰らず、近くの藪に捨ててしまったという。
土牢のあった東光寺は廃寺となるが、明治2年(1869年)明治天皇の命によって、護良親王を祀る神社が造営される。それが鎌倉宮である。本殿の裏側には、護良親王が幽閉された土牢が今でも残されている。また淵辺義博が首を捨てた場所も「御構廟」として境内にある。
<用語解説>
◆護良親王
1308-1335。後醍醐天皇の第三皇子。後醍醐天皇の蜂起から始まる元弘の変で活躍。建武の新政では征夷大将軍・兵部卿に任ぜられる。皇位簒奪の疑いのため鎌倉に幽閉され、北条時行による中先代の乱の混乱の際に暗殺される。
親王の首級については、愛妾によって鎌倉から持ち出されたとされ、横浜の戸塚と静岡県清水町には首級を埋めた神社があり、また山梨県都留市には親王の首級とされるものが祀られており毎年開帳されている。
◆淵辺義博
?-1335。足利直義の家臣。暗殺後は直義の指揮下に戻って、京都から来た足利尊氏軍と共に中先代の乱を平定する。しかし足利尊氏が後醍醐天皇を裏切ったために派遣された新田義貞の軍勢と戦い、駿河で討死。
アクセス:神奈川県鎌倉市二階堂