六道珍皇寺

【ろくどうちんこうじ/ろくどうちんのうじ】

六道の辻から松原通をさらに東へ行くと、そこに珍皇寺がある。普段は本当にひっそりとした寺であるが、8月7日から10日までの4日間、今までの静寂とはうってかわって老若男女が列をなしてこの寺を訪れる。京都の夏の風物詩【六道参り】である。京都に古くからいる人々は、この行事からお盆をスタートさせるのである。京都ではこのご先祖の精霊を「おしょらいさん」と呼び、この「おしょらいさん」を迎えに行くのが【六道参り】である。参り方の大まかな手順であるが、まず【迎え鐘】を鳴らし、そして線香でお清めした水塔婆をあげるのである。これで「おしょらいさん」は各家へ帰ってくるのである。

【迎え鐘】の鐘楼はお堂になっており、撞木を引っ張るための綱だけが外に出ている。鐘の姿を見ることはできない。この鐘には不思議な逸話が残されている。

この寺を建立した慶俊は鐘を鋳造したのだが、遣唐使の一員として唐へ渡ることになった。そこで弟子たちにこの鐘を地中深く埋めて3年後に掘り起こすように命じた。ところが弟子たちは命に背いて2年経ったところで掘り出してしまった。唐にあった慶俊はこの鐘がうち鳴らされた音を聞き、「惜しいことをした。 3年間地中に埋めておけば人が撞かなくとも独りでに鳴ることのできる霊鐘であったのに」と言ったという。

【六道参り】と共にこの寺の逸話として有名なのが、小野篁に関するものである。この寺には本尊以外に祀られている像がある。それが篁堂にある小野篁作の閻魔大王像であり、隣に並べられた小野篁像である。

小野篁は平安時代初期の貴族で、嵯峨天皇に仕え、参議にまで昇進した歴史上の人物である。しかし小野篁と言えば、冥府の役人の肩書きを持つという逸話がもっとも有名である。

右大臣藤原良相(よしみ)は病で死に、ただちに地獄の役人に捕らえられてしまった。そして冥府で閻魔大王の裁きを受けようとした時、そのそばにいた冥官が大王に申し出た「この大臣は非常に高潔な人物です。私に免じてお許し下さい」。良相が顔を上げると、その声の主は篁であった。そしてその助言に より良相は生き返ることができた。後日、内裏で篁に出会った良相が礼を述べると、「かつて私を弁護していただいたお礼です。ただこのことはご内密に」という返事であり、良相はますます畏れたという。

また藤原高藤に暴力を振るわれた直後、高藤は人事不省に陥った。しばらくして息を吹き返したが、篁の姿を見ると平伏し「閻魔庁へ行ったら、第二の冥官の位置に篁が座っていた」と言った。本人は隠していたようではあるが、当時の都の人々は篁が昼は内裏に仕え、夜は閻魔庁で仕事をしていると信じていたようで ある。

小野篁が地獄へ毎晩通っていた通勤路が、この珍皇寺にある井戸である。一般には公開されていないが、遠くからであれば見ることは可能である。どこにでもあるような井戸であるが、ここから篁が閻魔庁へ行っていたのかと思うと、何だか不思議な気分になる。

<用語解説>
◆慶俊
生没年不詳。天平勝宝8年(756年)律師となるが、道鏡によってその座を追われる。道鏡の失脚後に復帰。天応元年(781年)に愛宕山を賜り、月輪寺を再興する。

◆小野篁
802-853。父は小野岑守。孫に小野道風・小野小町がいる。嵯峨天皇以降歴代の天皇に仕え、参議にまで昇進、【野宰相】の異名を持つ。その文才は広く知られ、「無悪善」と「子子子子子子子子子子子子」の謎かけを解いたことでも有名である。また180㎝以上の大男で武芸にも秀でていた。かなり激情家の傾向もあり、遣唐副使に任命されながらも、正使の理不尽な要求に反発して乗船せず、隠岐に流されたりもしている。

◆藤原良相
813-867。父は藤原冬嗣、兄は藤原良房。仏教に厚く帰依し、また人の面倒見も良く、人望の厚い人柄であったとされる。上記の逸話では右大臣となっているが、実際には篁の死後に昇進している。

◆藤原高藤
838-900。祖父は藤原冬嗣。父が若くして亡くなったため、前半生は官位の昇進はほとんどなかった。ところが、娘の夫である源定省が皇族に復帰して即位した(第59代・宇多天皇)ため、官位昇進が進む。最終的に第60代・醍醐天皇の外祖父となり内大臣に任ぜられる。妻の宮道列子との出会いは『今昔物語』にも伝えられ、直系の子孫である紫式部『源氏物語』における“明石の君”のモデルであるともされる。

アクセス:京都市東山区松原通東大路西入ル小松町