観音寺 小倉大納言の墓

【かんのんじ おぐらだいなごんのはか】

佐渡島は、政治的あるいは思想的な事案で流罪となった者が流された島である。彼らの多くは当代一流の学識を持った文化人であり、佐渡の地に高度な文化をもたらした。そして再び罪を赦されて島を離れた者もあれば、この地に骨を埋めた者もある。小倉大納言実起は、政争に敗れて佐渡に流され、生涯を終えた人物の一人である。

罪を得る数年前までは、小倉大納言は朝廷内でもとりわけ重要な人物であった。娘が霊元天皇の一宮を生み、中宮に子ができなければ次代の天皇とする約束まで朝廷と幕府の間で出来ていた。つまり将来は天皇の外祖父となれる可能性があったわけである。ところが、約束を交わしていた後水尾上皇と徳川家綱が相次いで亡くなると、霊元天皇が五宮に皇位を継がせて、一宮を出家させようと画策を始める。そして延宝9年(1681年)、一宮の出家が決定。それに対して小倉大納言は一宮を屋敷に匿って勅命を拒否したのである。騒動は約半年続き、最終的に武力で制圧した天皇は幕府に処分を要請し、小倉大納言は勅命違反の罪を得て、息子の公連・季伴と共に佐渡へ流罪となったのである。

佐渡に流されてからの小倉父子は、比較的自由に行動することが認められており、和歌に通じていたために地元の者に和歌や漢詩などを教授したとされる。しかし、実起と公連は流罪後わずか2年ほどで病没してしまうのである。

小倉父子の墓は相川の町に近い観音寺にある。罪人の身分で亡くなったためであろうか、墓地の片隅にある墓は大変質素なものであり、墓石は風化が激しくてほとんど文字を読むことは出来ない。案内標示がなければ、全く気付くこともないかもしれない。

<用語解説>
◆小倉実起
1622-1684。正二位大納言。明治14年(1881年)に天皇の命により、実起をはじめ公連・季伴・中納言典侍(一宮の生母)の4名は、京都の上御霊神社の相殿に祀られた。明治天皇の子女が相次いで亡くなったことを祟りと見なし、政争によって皇室に恨みを持った小倉親子を“御霊”として祀ったとされる。
小倉親子の祟りとは「七代にわたって中宮(皇后)の生んだ子を天皇の地位に就かせない」とされている。実際、霊元天皇によって天皇の座に就いた東山天皇から7世代にわたって10人が天皇となったが、いずれも庶子である(7世代目に当たるのが明治天皇)。8世代目となった大正天皇になって、ようやく皇后の生んだ子が天皇となっている(後の昭和天皇)。ただし中宮を立てない状態で、次位の女御の生んだ子が天皇となるケースもあり、どこまで意識された祟りであったかは微妙である。

アクセス:新潟県佐渡市鹿伏