元興寺

【がんごうじ】

寺の起こりは、蘇我馬子が飛鳥の地に建立した、日本最初の本格的寺院である法興寺(現在の飛鳥寺)である。養老2年(718年)、当時の都であった平城京に移転、ここで現在の元興寺の名に改称する。元興寺は南都七大寺として朝廷の保護を受けていたが、平安時代末期には衰退。唯一、智光曼荼羅を有する極楽坊だけが浄土信仰の影響を受けて発展していった。現在“元興寺”という名称で世界遺産登録されている寺院はこの極楽坊であり、かつての広大な境内の殆どは失われてしまっている(極楽坊から100mほど離れた場所には「元興寺塔跡」など、かつて元興寺を形成していたとされる史跡がある)。

“元興寺”の名は単に寺院の名称で使われるだけではなく、“がごじ”や“がごぜ”と読ませて「お化け」や「鬼」を総称する言葉としても認知されている。これは『日本霊異記』に記載されている道場法師にまつわる逸話からできているとされる。

道場法師は尾張国の生まれてあるが、落ちてきた雷を父親が助けたお礼に生まれてきた子であり、大力の持ち主であった。敏達天皇在位の頃、元興寺の童子となったが、鐘楼で童子が何人も殺されるという怪事が発生し、鬼の仕業であるとされた。そこで大力の童子が退治を申し出て、鐘楼で待ち受けた。そして現れたあやかしを捕らえ、夜が明ける頃まで散々その髪を引きずり回し、とうとう引き剥がしてしまったのである。あやかしは逃がしてしまったが、血痕が残っており、その跡を追っていくと、ある墓の前に辿り着いた。それはかつて元興寺で働いていた下男のものであり、生前から悪い噂の絶えなかった人物であった。そして引き剥がされた頭髪は寺宝となっているという。

<用語解説>
◆元興寺極楽坊
「古都奈良の文化財」として世界文化遺産に登録されている。本堂などは国宝に指定。本堂に使われている瓦の一部は飛鳥時代のものであり、日本最古の瓦である。また禅室(僧坊)の木材の一部は、年輪年代測定法の結果、582年に伐採されたものがあるということが判った。

◆智光曼荼羅
元興寺の僧・智光(709?-780?)は、同僚の頼光(礼光)の死後、夢の中で彼が阿弥陀の極楽世界にいることを知らされ、さらに阿弥陀の極楽浄土の様相を教えられた。そこで描かれたのが智光曼荼羅である。
智光にまつわる伝説として、行基に対する嫉妬から急死するが10日後に蘇生。地獄で閻魔大王から行基の件で叱責されたとして、蘇生後に行基に謝罪をしたという。

◆道場法師
生没年不詳。『日本霊異記』によると、雷神の申し子として大力を授かり、生まれた時は頭に蛇が巻き付いていたとされる。また10歳頃に上洛して王族の者と力比べをして勝ち、その後元興寺の童子となって鬼を退治、さらに優婆塞(在家の仏道修行者)の時代には、大力で元興寺の田の引水に関する妨害を排除する。その後、出家して道場法師と名乗った。その後故郷である尾張(現・名古屋市)に尾張元興寺を建立している。
なお第30代敏達天皇は572-585年頃の在位であるとされている。

◆“がごぜ”
江戸時代には、関東から西日本一帯で「お化け」や「鬼」を総称する言葉(幼児語)として使われていた。言葉の起源として「元興寺の鬼」の伝説が挙げられるが、柳田國男は『妖怪談義』で、「がご~(咬もう)」という音から派生したものであると考え、元興寺由来説を否定している。

アクセス:奈良県奈良市中院町