幽霊井戸

【ゆうれいいど】

麹屋町の路地脇に、何の変哲もないコンクリート片が道に埋まっている。かつてこの地にあった井戸の水を汲み上げるためのポンプの台石と言われている。これが幽霊の教えによって掘り当てられた、通称“幽霊井戸”である。

昔、麹屋町に飴屋があった。ある晩、店の戸を叩く者がある。主人が出ると、今にも消え入りそうな若い女が一人立っており、一文で飴を分けて欲しいという。主人が飴を渡すと、女は立ち去っていった。ところが、その翌日もそのまた翌日も同じ女がやって来る。ついには6日続けて女は飴を一文ずつ買いに来たのである。

そして7日目。その日も女はやって来たが、金がないので飴をめぐんで欲しいと言ってきた。主人は快く飴を分けてやった。しかし不思議に思い、立ち去っていく女の後を追ってみると、女は近くの光源寺まで来ると突然姿を消した。さらに墓場から赤ん坊の泣き声が聞こえる。驚いた主人は住職と共に泣き声がした新墓を掘ってみると、女の遺体に抱かれて飴を舐める赤ん坊がいたのである。

女を葬ったのは、藤原清永という宮大工であった。女は、清永が京都で修行中に恋仲になり、清永が郷里の長崎に帰ったのを追ったものの、添い遂げることなく病で亡くなったのであった。子細を聞いた清永は子供を引き取り、供養のために女の姿に似せた幽霊像を寺に納めたという。

赤ん坊を見つけてから数日して、飴屋の枕元に女の幽霊が現れた。世話になったお礼がしたいと言う。ならばと飴屋は、近隣の水利が悪いので井戸が欲しいと頼んだ。すると幽霊は「私の櫛が落ちている場所を掘りなさい」と言って消えた。翌日飴屋が櫛を見つけて掘ってみると、みるみる水が湧いてきて立派な井戸になったのである。それが“幽霊井戸”の由来である。井戸は既に埋められて久しいが、今でも光源寺の幽霊像が開帳される前日には、この井戸のあった場所で盛大に法要がおこなわれる。そして毎日、このコンクリート片には盛り塩が供えられるとのこと。

<用語解説>
◆光源寺
浄土真宗本願寺派の寺院。寛永14年(1637年)に奉行所より土地をもらい、柳川から来た松吟が建立する。

◆光源寺の幽霊像
「産女(うぐめ)幽霊」と呼ばれ、毎年8月16日に開帳され、飴がふるまわれる。伝承では藤原清永がかつての恋人を模して造ったものとされるが、実際には、延享5年(1748年)に常陸国の無量寿寺の幽霊を刻したものとの箱書きと由緒書がある。なお藤原清永という宮大工については不詳である。

アクセス:長崎県長崎市麹屋町