信玄塚

【しんげんづか】

国道153号線を走ると、その途中で“信玄塚”と書かれた巨大な看板が立ち、道路の壁面にも武田家の旗印である風林火山のデザインが施されている場所がある。この地が武田信玄終焉の地の1つとされる。

元亀4年(1573年)、信玄は約3万の大軍を率いて破竹の勢いで西へ攻め上っている最中であったが、野田城攻略後その動きを止める。そして春になるとそのまま本国へ引き揚げてしまう。この不可解な行動の裏には、重篤だった信玄の死が秘されていた。しかし信玄の遺言により、彼の死は隠されたため、その正確な終焉の地も公にされることがなかった。そのため“信玄の墓”とされるものが、三河北部から信濃南部にかけて何カ所か存在する。

『甲陽軍鑑』によると、“ねばねの上村”で信玄は亡くなったとされ、この地は有力な終焉地となっている。この地に残る伝承によると、信玄の死に際して哀悼の意を込めて風林火山の旗を横にしたので、この地は“横旗”と呼ばれ現地名になったという。また、信玄没後の百回忌供養のため寛文年間(1661~1673年)に武田家の縁者が宝篋印塔を建てたとされている。

この宝篋印塔であるが、調査の結果、室町時代後期の特徴を備えたものであることが判明している。ただし、供養の対象となったのは、領主クラスの身分の高い者であっただろうともされている。

<用語解説>
◆信玄終焉の地
有力な場所としては、阿智村の駒場(信玄を火葬したとされる長岳寺がある)、設楽町の福田寺がある。

◆『甲陽軍鑑』
武田信玄・勝頼の事績を通して、甲州流の軍法や兵法を著したもの。信玄の家臣であった高坂弾正が書いたとされるが、江戸時代初期に旧武田家臣の子であった小幡景憲がまとめ上げたと考えられている。

アクセス:長野県下伊那郡根羽村横畑