笠原新三郎首塚

【かさはらしんざぶろうくびづか】

武田晴信(信玄)の信濃攻略は、家督継承直後から本格化している。同盟関係にあった諏訪氏を電撃的に攻撃して制圧、さらに伊那方面にまで進出して地盤を固めている。それと同時に東信濃の佐久郡にも兵を送り込んで、徐々に領土を拡張している。

佐久郡は上野国に近く、この土地の国人衆の多くは関東管領・上杉氏を頼りに武田氏に抵抗した。中でも最後まで抵抗を続けたのは、志賀城主の笠原新三郎清繁である。志賀の地が碓氷峠に近く上野の援軍を得やすいこと、また笠原氏の親族である高田氏が上杉の家臣であることも好条件であった。

それに対して、晴信は天文16年(1547年)に自ら甲府を発って出陣。清繁も上杉憲政に援軍を要請し、いよいよ志賀城の攻防戦が始まった。まず武田軍は志賀城を包囲して水を絶った。一方の上杉軍は3000以上の兵力で碓氷峠を越えて信濃に入ってきた。それを迎撃したのが、武田軍の板垣信方と甘利虎泰である。両将は小田井原で上杉軍を迎え撃つと、3000の兵を討ち取って一方的に打ち負かしたのである。

ここで晴信は非道な策を実行する。3000の討ち取った兵の首を自陣に持ち帰ると、それを志賀城から見えるところに並べたのである。もはや援軍が来ないことを悟った城方であるが、結局降伏することなく武田軍の総攻撃を受けた。そしてわずか2日ほどで落城、城主の笠原清繁は討死した。

武田軍は、生き延びて捕らえられた城方の者に対してさらに過酷な仕打ちを行った。美貌で評判の清繁の若い妻は、戦功著しかった小山田信有に褒美として与えられた。そして他の者は甲府へ連れて行かれ、そこで親族に高額で身請けされるか、それが出来なければ人買いに売り払われた。この事実は後年、武田信玄の大悪業として伝えられることになったのである。

かつて志賀城があった地の近くに、笠原新三郎清繁の首塚が残されている。それのある場所は水田の真ん中。どうしてもどけることが出来ない曰く因縁があるとしか思えない。

写真を撮っていると、近隣の方と思われる男性に話しかけられた。やはり何度か首塚を移転させようと計画が持ち上がったらしいが、そのたびに病人や怪我人がでて沙汰止みになるという。清繁自身は戦の中で散っていったが、城主としてこの上ない恥辱を受けた無念が、この地を離れることを赦さないのであろうか。

アクセス:長野県佐久市志賀