黒田の家臣

【くろだのかしん】

日向灘に面した細島港は、神武東征にまつわる伝承が残されるほどの古い歴史のある天然の良港である。時代を経て近世でも倭寇や南蛮船が来航し、江戸時代になると天領となり、参勤交代を行う薩摩藩などの海路の中継港ともなっている。

この細島港の先にある半島部分に、古島という名の小さな島がある。干潮になると半島と陸続きになる、周囲100m強の島であるが、地元では“黒田の家臣”と呼ばれている。それは、この島の高台にある3基の墓に由来する。

文久2年(1862年)5月、この島で3人の侍の惨殺死体が発見された。全員、着物は切れ切れになり、片方の手には麻縄が結わえられ、10箇所近い深い刀傷があった。捕らえられた状態で嬲り殺しにされたのは明白であった。そして唯一身元がわかる手掛かりが、一人が身につけていた腹巻きに書かれてあった「平生心事豈有他、赤心報国唯四字、黒田家臣、海賀直求」の文字であった。

この名前から秋月黒田藩を脱藩した海賀宮門と身元が分かると、残りの2名も肥前島原出身の中村主計、但馬多気出身の千葉郁太郎と判明した。そして死に至るまでの彼らの行動も分かった。

遺体が発見される半月ほど前の4月23日。京都伏見で起こったのが寺田屋事件である。薩摩藩内の倒幕過激派分子が上意によって粛正された藩内抗争であったが、過激派分子に同調して寺田屋には多くの他藩の人間が集まっていた。最終的にはその殆どが各藩に引き取られていったが、5名の者だけが引き取り手がなく、そのまま薩摩藩士らと一緒に鹿児島まで護送されることとなった。その5名の内の3名が、惨殺体として発見されたのであった。そして残りの2名、田中河内介とその子の瑳磨介も既に垂水沖で同様に嬲り殺しにされ、小豆島で遺体となって発見されていた。

彼らの死に直接関わったであろう薩摩藩であるが、あまりにも陰惨な謀殺であるがために表立って証言することはなかった(近年になって藩父・島津久光による「船中に如何様にも取り計らうべく」との書状が見つかっている)。それに対して、この惨殺体の第一発見者である黒木庄八は、遺体を荼毘に付すと古島に墓を建立し、生涯に渡って墓を守り続けた。史跡に指定されて以降も、黒木家は代々これを祀り続けている。

<用語解説>
◆寺田屋事件
文久2年(1862年)、薩摩藩の島津久光が京都へ上洛。公武合体を進める政策に失望した有馬新七ら藩内の過激分子が、京都所司代を襲撃する計画のために伏見の寺田屋に集結。久光の命を受けた藩士との間で決闘となり、その場で6名が討死した(追討側も1名死亡)。

◆田中河内介
1815-1862。大納言・中山忠能の家臣。尊王攘夷派として京都で活躍。寺田屋事件の直後に惨殺される。忠能の娘・慶子が生んだ親王(後の明治天皇)の養育係を務めたことでも有名。

◆6人目の犠牲者
薩摩藩に護送される途中で殺されたのは5名となっているが、もう1名“行方不明”者がいる。田中河内介と同輩の青木頼母であるが、5名と共に乗船した記録はあるが、その後の消息は全く分かっていない。しかし後の証言によると、3名の遺体以外にももう1体の惨殺体が近くに流れ着いていたとされる(発見者は後難を怖れて役所に届け出ずに、そのまま埋葬したという)。また3名の内、千葉郁太郎だけは10代であったが、検死結果では3名とも30近い年齢であったとされている。これらのことから、青木頼母も細島で殺されて打ち棄てられた可能性があると推測される。

アクセス:宮崎県日向市細島